今日の帰り道
2007年2月9日私の前を走っていた白いワゴンRの初心者マークの下に「特攻一番機」と書いてありました。
石凪です。
仮免の教習車の後ろにもつきました。
多分ギアチェンジしているのでしょう、発進した後少ししてスピードが落ちるたび、頑張れ!とか微笑ましく思ってしまったよ。
そういえば妹さんも盛岡辺りで教習所に通っているはず。
懐かしいなぁ。
…あまり、思い出したくない記憶だが。
何故って、教官で外れをひいて教習所に行くたび胃が痛かったから。
しかも教習所の場所の関係で、全く知らない道を走る事になったしね…
北上なんか、しらねぇよ!
せめて花巻!
…まぁ、突き詰めると、テストで赤点とって教習所通いだすのが遅くなり、花巻だと混んでて免許間に合わないかもとか言う事態になったのが悪い。(つまり自分が悪い
…まぁ、あれですよ。
自分学校のお勉強、お世辞にも出来る方ではなかったのですよ。
ようは、馬鹿ってことです。
英語は完璧捨て科目。横文字駄目駄目。これからのぐろーばるな社会に適応していける気配がありません(←
数学は一応やりつつ落とす(←
理系は感性で。(これで点数悪くないんだもん
簿記は普通に頑張ったよ。だって、検定取れるじゃん。就職有利じゃん(打算
プログラミングとか、そんなのは知りません。何を言われても理解できません。横文字だからです(市ね
三年目には国語が暗記科目になって泣いた覚えがあるぞ。
国語なんて、誰がテスト勉強するもんかぁあぁぁああ!!
テスト前日の日曜に、自衛隊三沢基地に行って航空祭を楽しんでた事もある。(半ば親父に拉致られたという説もある)
授業中は基本的に隙を見計らって読書。もしくは何かアレな作業。
この人駄目だ!
Dの「闇より暗い慟哭のアカペラと薔薇より赤い情熱のアリア 」と「太陽を葬る日」の初回限定版がちょっと欲しい…
何故って、DVDついてるから。
動くルイザさんが見れる…!(←
最近何故か再びびずある系な日々。
とっとと持ってるDのCDをMDに突っ込まなければ…そうしないと、車でだだ流しにするのが面どくさ(ry
議員特権ワースト大賞とか、素敵。
もっとやればいいよ。
自分という括りは、実の所酷く曖昧であると定義します。
親から兄弟から友人から教師から同僚から赤の他人から、様々な影響を受けつつそれらを積み上げて形作られた、恐らくこうしている今現在も変化し続けているであろう、自分。
影響、つまり、洗脳であり模倣であり刷り込みであり再現であり繰り返しであり。
言い過ぎとは思いません。
私たちはきっと他人を模倣し吸収し映し鏡とし自分としている。
自分らしさ、他人らしさ、自分は自分、他人は他人。
では、今ここに在る自分という存在の、正確にはどこからどこまでが「自分」であり、どこからどこまでが「他人」なのか。
多分私は、私自身以上に他人で構成されている。
石凪です。
仮免の教習車の後ろにもつきました。
多分ギアチェンジしているのでしょう、発進した後少ししてスピードが落ちるたび、頑張れ!とか微笑ましく思ってしまったよ。
そういえば妹さんも盛岡辺りで教習所に通っているはず。
懐かしいなぁ。
…あまり、思い出したくない記憶だが。
何故って、教官で外れをひいて教習所に行くたび胃が痛かったから。
しかも教習所の場所の関係で、全く知らない道を走る事になったしね…
北上なんか、しらねぇよ!
せめて花巻!
…まぁ、突き詰めると、テストで赤点とって教習所通いだすのが遅くなり、花巻だと混んでて免許間に合わないかもとか言う事態になったのが悪い。(つまり自分が悪い
…まぁ、あれですよ。
自分学校のお勉強、お世辞にも出来る方ではなかったのですよ。
ようは、馬鹿ってことです。
英語は完璧捨て科目。横文字駄目駄目。これからのぐろーばるな社会に適応していける気配がありません(←
数学は一応やりつつ落とす(←
理系は感性で。(これで点数悪くないんだもん
簿記は普通に頑張ったよ。だって、検定取れるじゃん。就職有利じゃん(打算
プログラミングとか、そんなのは知りません。何を言われても理解できません。横文字だからです(市ね
三年目には国語が暗記科目になって泣いた覚えがあるぞ。
国語なんて、誰がテスト勉強するもんかぁあぁぁああ!!
テスト前日の日曜に、自衛隊三沢基地に行って航空祭を楽しんでた事もある。(半ば親父に拉致られたという説もある)
授業中は基本的に隙を見計らって読書。もしくは何かアレな作業。
この人駄目だ!
Dの「闇より暗い慟哭のアカペラと薔薇より赤い情熱のアリア 」と「太陽を葬る日」の初回限定版がちょっと欲しい…
何故って、DVDついてるから。
動くルイザさんが見れる…!(←
最近何故か再びびずある系な日々。
とっとと持ってるDのCDをMDに突っ込まなければ…そうしないと、車でだだ流しにするのが面どくさ(ry
議員特権ワースト大賞とか、素敵。
もっとやればいいよ。
自分という括りは、実の所酷く曖昧であると定義します。
親から兄弟から友人から教師から同僚から赤の他人から、様々な影響を受けつつそれらを積み上げて形作られた、恐らくこうしている今現在も変化し続けているであろう、自分。
影響、つまり、洗脳であり模倣であり刷り込みであり再現であり繰り返しであり。
言い過ぎとは思いません。
私たちはきっと他人を模倣し吸収し映し鏡とし自分としている。
自分らしさ、他人らしさ、自分は自分、他人は他人。
では、今ここに在る自分という存在の、正確にはどこからどこまでが「自分」であり、どこからどこまでが「他人」なのか。
多分私は、私自身以上に他人で構成されている。
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